さの萬のこと 不二求心 肉にまつわるエッセイ

不便だからこそ切り開けた地方肉屋の歴史

私は24才で家業のさの萬に入りました。

その頃は今のように物流も発達していなかったため、宅急便もありませんし、冷凍でのトラック輸送も範囲が限られていて、東京〜名古屋のトラック便はあっても、東海道沿線から入った富士宮への便はありませんでした。

しかしながら、東京の同業者は、私の知らない特別な輸入牛肉や、ラム、鴨、リードボー、フォアグラなど珍しい肉を仕入れて商売を拡大させていました。当時は肉の仕入れにもかなりの地域差があり、芝浦の東京食肉市場では、静岡の業者からの仕入れ値よりも2〜3割も安く仕入れることができたのです。その業界構造がだんだんとわかってきたため、私は父にお願いして2tの冷凍車を買ってもらい、毎週金曜日に朝4時起きをして、東名高速道路を走らせて東京に向うという、私なりの「仕入れ」を始めることにしました。

東名高速道路の東京料金所を朝6時までに通過しないと大変混雑をして通り抜けるのに時間がかかるので、なんとか間に合うようにぶっ飛ばして行きました。7時前後には芝浦に到着しますので、それから腹ごしらえをして、芝浦・品川・平和島などの冷蔵倉庫を周ります。そこでは輸入肉や珍しい商品の集荷をし、さらに東京食肉市場で牛肉や豚肉を買い付けました。自分の「直感」を信じ、「販売戦略」を考えながら、一日かけてさまざまな肉を直接仕入れてトラックに積み込みます。そして、夕方には富士宮に戻るということを一週間に一度、5年ほど実行しておりました。

そうこうしているうちに時代が変わり、冷凍トラック便も便利になり、また仕入れ先との関係も築くことができたため、電話での仕入れもできるようになりました。

今振り返れば、「珍しい商品を拡充させたい」という想いと行動により、仕入れ方法の開拓があり、仕入れ先の拡大につながったのだと思います。

その後、さの萬は、珍しい商品や価格差のある商品を武器として、富士宮はもとより、富士地区、沼津・三島地区、静岡地区へと販路を拡大するに至りました。

不便だからこそ切り開くことができた「さの萬のひとつの歴史」です。

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